「原発ゼロ政策決定」信じていいの?!

「原発ゼロ政策決定」信じていいの?!

原発の危険から子どもを守る北陸医師の会・世話人吉田均

昨日(12年9月14日)、政府は原発ゼロ政策を決定し、30年代を達成目標としたそうだ。それ自体はめでたいことである。しかし、これまでの政府首脳の言動から考えると、人の命の大切さに目覚め、深遠な思想のもとで決定したとはとても考えられない。官邸前デモなどで国民の怒りに慄(おのの)き、次回の総選挙を心配しての自己保身の動きであろう。したがって選挙が終われば、元の木阿弥となる恐れは十分ある。もし政権交代ともなれば、ゼロ政策はなかったこととして反古(ほご)にされるだろう。

原発ゼロを決定したのに、六ヶ所村の再処理施設は続行するそうだ。再処理した核燃料は原発がなければ使い道がない。この矛盾した方針は一体どうしたことだ。六ヶ所村の地元対策だろうか。施設が中止ともなれば、ため込んだ燃料棒をもとの各原発に返すことになる。地元との約束事だそうだ。そうなればほとんどの原発は即停止だ。それを避けるための対策とみた。

40年経った原発は廃炉だそうだ。すでに40年経過した原発が福井に4基あり、この方針に従えば即廃炉ということになる。しかし、それを最終決定するのはあの原子力規制委員会だそうだ。浅はかでインチキな考えが透けてみえる。

原発ゼロは30年代というと今から早くて18年後、遅ければ27年後ということになる。その間に事故が起きないという保証はどこにもない。次の事故が起きるのに十分すぎる年月だ。フクシマ事故では西風のため放射性物質の多くは太平洋に落下した。これが西日本の原発であれば、どうなったか。想像しただけでも恐ろしい。さらに六ヶ所村再処理施設で事故があれば、風の方向どころではなく、地球規模の超弩級大惨事となり、日本は壊滅するであろう。このリスクは、原発がゼロとなっても再処理施設がある限り続く。

再生可能エネルギーが原子力に代わるにはこれだけの年月が必要だそうだ。本当だろか。今年の夏はとても暑かったが、電力不足は起きなかった。関西電力の話では、運転していた大飯原発がなくても電力が足りたそうだ。水力、火力そして節電力(しかも自主的)で乗り切れたということだ。何のことはない。再生可能エネルギーに頼らなくてもても、原発なしでやっていけるということだ。しかし、関西電力の言い訳がふるっている。「足りたのは結果論にすぎない」と。ならばこう反論しよう。「再稼働後、事故がなかったのは結果論にすぎない」。

政府の決定で経済界、地元自治体は大慌てのようだ。その理由は「経済が立ち行かない」。しかし、彼らは目先の金銭に目を奪われるあまり、その先にある恐ろしい落とし穴に気づかない、あるいはそのふりをしている。もう一度大事故が起きれば、その大切な日本経済そのものが破壊され、地元自治体は土地と住民を失い、その存続さえ危ぶまれることになる。先見性のある経営者や賢い為政者であれば「経済が大切だからこそ、即原発ゼロ」と考えるはずである。

安全保障のため原発推進が必要という国際政治の論客や野党の政治家がいる。冷徹な国際関係を見据えたうえでの発言であろう。しかし、安全保障というのはどのような意味なのだろうか。国民を危険にさらすような原発をつくって、“安全保障”とはこれいかに。

それとも核の抑止力としての原発というお考えなのだろうか。しかし、テロを起こすような国籍不明の人々には抑止力は働かない。むしろ原発は格好の攻撃目標となるだろう。なぜなら、全電源を止めるだけで核爆発を起こすことができるからである。フクシマ事故が図(はか)らずもそれを知らしめてしまった。核攻撃のおぜん立てをしているようなものだ。

<追加>
今朝(9月16日)の新聞によれば「現在建設中の原発は完成させる」と経産大臣。2日前の政策決定では、原発は新規につくらないと言っていたのに、これいかに。通常、まだ完成していないものは“新規”という。どうも彼には一般常識と異なる日本語があるらしい。「原発ゼロ政策」の胡散臭(うさんくさ)さが早くも露呈した。

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